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ID番号 05049
事件名 労働者災害補償保険法による遺族補償給付不支給決定取消請求事件
いわゆる事件名 広島労基署長事件
争点
事案概要  労災事故で死亡した労働者と重婚的内縁関係にあった者が遺族補償の受給権者であるとして遺族補償を請求した事例。
参照法条 労働者災害補償保険法16条の2
体系項目 労災補償・労災保険 / 補償内容・保険給付 / 遺族補償(給付)
裁判年月日 1980年11月20日
裁判所名 広島地
裁判形式 判決
事件番号 昭和53年 (行ウ) 11 
裁判結果 棄却(控訴)
出典 労働民例集31巻6号1135頁/時報1000号73頁
審級関係
評釈論文 西村健一郎・判例評論274号8頁
判決理由 〔労災補償・労災保険-補償内容・保険給付-遺族補償(給付)〕
 1 元来、労災法一六条の二第一項括弧書の趣旨は、他に婚姻関係のない男女が結婚して事実上全く法律上の夫婦と変らぬ婚姻生活を継続している場合、なんらかの事情で婚姻の届出をしていなかったため法律上同項本文所定の被災者の配偶者とみられないような場合を予定したものと解され、一般には、被災者に法律上の妻があるような場合に被災者と重婚的に内縁関係に入ったような者は含まないものと解される。
 ただ、被災者に法律上の妻があるような場合でも、その妻の長期行方不明、生死不明、またその妻が他の男性と長期間に亘り重婚的内縁関係を継続しているような場合などで、被災者との婚姻関係は全く形骸化していて単に婚姻届出のみが残続もしくは離婚届出がなされないのみの状況にあり、実質的には法律上の離婚があったのと同視し得るような状況の場合は、被災者に法律上の妻がない場合と同視して、前記同項括弧書の適用を考慮し得るものと解されよう。
 〔中略〕
 (一) 亡A(大正五年五月三〇日生)は、B(大正二年三月二二日生)と昭和一五年九月六日婚姻し、二男二女(昭和一五年九月一〇日長男C、昭和一七年八月二日長女D、昭和一九年八月一三日二女E、昭和二三年九月二日二男F)をもうけたが、戦時中呉から岡山へ疎開し、岡山県川上町においてBの実兄訴外Gが経営する鉱山(G鉱業所)に勤務し、妻子ともども右実兄方に同居して平穏に生活していたところ、昭和二九年ころ、右鉱山が経営不振のため閉山となったことから、亡Aはその働口を求め、当時広島に住んで潜水業を営んでいた亡Aの実兄Hを頼って単身広島に赴いた。
 (二) 右広島に赴く際、亡AがBら家族を同伴しなかったのは、子供達がいずれも幼いうえ、広島での生活の目処もたたなかったことなどからであって、夫婦間の仲違い等が原因ではなかった。
 (三) 一方、原告(大正一〇年一〇月一四日生)はそのころ父親とともに小型船Iを所有して広島港内において通船業を営んでいたが、たまたま亡Aを雇ったことから知り合い、父も病気で倒れ、亡Aを頼っているうちたがいに親しさを増し、昭和三二、三年ころから原告と亡Aは同棲するようになり、その後、両名でアパートを借りて住むなどして引続き亡Aが死亡するまで夫婦同然の生活を継続した。なお、原告と亡Aの間には子供は無く、また、原告は亡Aと知り合った頃から亡Aには既に法律上の妻子がいることを熟知していた。
 (四) 原告と亡Aは、原告が昭和三〇年から小型船舶操縦士の免許を有していたことから原告所有にかかる小型船Iを利用して共同で通船業を営んでいたが、昭和四四年にJ株式会社が設立されてからは、原告らは右共同での通船業を廃止し、原告はその所有船を右会社に貸与し、亡Aは右会社に勤めるなどして、原告らの生計を維持していた。
 (五) 原告は亡Aに対してしばしばBと離婚して自己を正式の妻としてくれるよう求めていたが、亡Aは「子供達が大きくなるまで待て。」と言って延引するのみで、子供達がいずれも成長した後も原告を籍に入れようとしたことはなく、また、Bに対し離婚を求めたり、Bやその親族との間で離婚について協議しようとしたこともなかった。
 (六) 亡Aは、広島に赴いて二、三ケ月した後ころから、末子Fが高校を卒業した昭和四一年ころまで相当の期間Bのもとへ毎月ではないが月に二、〇〇〇円から五、〇〇〇円程度の金額の送金を続け、その後は送金は途絶えたものの、子供達が訪れて来る度に金品を託したり、また、亡Aが死亡する前の年くらいまで、妻子や妻の実兄Gなどに対してLなどの季節のものや衣類等を再三送っていた。
 (七) 亡Aは、広島に出て後、昭和三二年ころから子供達が成人するころまでの間は、Bのもとに年に一、二回祭のときに帰ったり、また盆、正月に帰ったり帰って来なかったりの状態であったが、その後は、子供達が広島の自己のもとへしばしば訪れるようになったこともあってBのもとへは次第に帰らなくなった。
 (八) 亡Aの昭和四六年から同四八年までの所得税の確定申告書の記載によると原告は「M」名で亡Aの控除配偶者として扱われており、また、原告の国民健康保険被保険者証では原告が世帯主亡Aの未届の妻たる世帯員として扱われており、さらにまた、住民票の記載によると亡Aと原告はたがいに未届の夫、妻として同一世帯に属するものとされている。
 (九) 原告は亡Aとともに亡Aの親族の者の結婚式や葬式などにも出席し、亡Aの子供達も再三原告らのアパートを訪れては宿泊するなどし、さらに、亡Aの親族の者らと手紙のやりとりをするなどもしていた。
 (一〇) Bは、亡Aが広島へ出た後は、亡Aからの送金や兄の農業を手伝うなどしてその生計を維持し、四人の子供を養育したが、昭和四三、四年ころ亡Aと原告との関係を知って後も種々案じたものの、夫亡Aとの間に格別の波乱もなく比較的平穏に経過した。なおBには亡Aと離婚する意思は終始まったく無かったものとみられる。
 以上の事実が認められる。
 《証拠判断略》
 3 右認定事実からしてみるに、なるほど、原告と亡Aとはその同棲を始めた昭和三二、三年ころから亡A死亡に至る昭和四九年まで約一七年間もの長きにわたり、ほぼ夫婦同然の内縁関係を継続したものとみられ、一方、亡Aとその法律上の妻Bとの間はほとんどその実質を伴わない夫婦関係にあったものとみられる。
 しかしながら、亡AとBとの間の行き来が途絶えていたわけではなく、むしろその子供ら親族を介してはかなり密な関係が継続されており、Bに終始亡Aとの離婚の意思のなかったのはもとより、亡Aについても、Bとはっきり離婚して原告を法律上の妻とする意思まであったとはみられない状況で、これらからすると、亡AとBとの婚姻関係が前説示のごとく全く形骸化していて婚姻の届出のみが残続し、実質的には法律上の離婚があったのと同視し得るような状況にあったものとまでは到底認めがたいところで、したがって、本件はいわゆる重婚的内縁関係にあるものというべく、原告は前記労災法一六条の二第一項括弧書所定の者(妻)には該当しないものといわざるを得ない。