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ID番号 : 08512
事件名 : 仮処分命令申立却下決定に対する抗告事件
いわゆる事件名 : A特許事務所(就業禁止仮処分)事件
争点 : 雇用契約締結時に提出した誓約書の就職禁止条項の合意が公序良俗に違反して無効か否かが争われた事案(使用者敗訴)
事案概要 : A特許事務所を経営する弁理士Xが、退職した従業員Yら12名に対し、雇用契約時に交わした誓約書の就職禁止条項により、退職後2年間はXの顧客と競合関係にある特許事務所への再就職を禁止する合意が成立していたとして、就職の禁止を求める仮処分命令を申立てたところ、大阪地裁は就職禁止の合意は公序良俗に反し無効であるとして却下したため、Xが抗告した事案である。
 大阪高裁は、Xが顧客の技術上の秘密情報を保護する目的でYらに就職禁止条項の承諾を求めたことには合理性があるとした上で、誓約書記載の就職禁止条項は、当事者双方は誓約書を従業員としての注意を喚起する趣旨の文書で、就職禁止条項がその文言どおりYらの職業選択の自由を制限する内容の約束として当事者間で合意されたものとは認められないとし、Xの抗告を棄却した。
参照法条 : 民法90条
体系項目 : 労働契約(民事)/労働契約上の権利義務/企業秘密保持
労働契約(民事)/労働契約上の権利義務/競業避止義務
裁判年月日 : 2006年10月5日
裁判所名 : 大阪高
裁判形式 : 決定
事件番号 : 平成17(ラ)1362
裁判結果 : 棄却
出典 : 労働判例927号23頁
審級関係 : 一審/大阪地/平17.10.27/平成17年(ヨ)10006号
評釈論文 : 香川孝三・ジュリスト1361号190~192頁2008年8月1日
判決理由 : 〔労働契約-労働契約上の権利義務-企業秘密保持〕
〔労働契約-労働契約上の権利義務-競業避止義務〕
 1 被保全権利について
 まず、争点(1)アの被保全権利の有無(本件就職禁止条項の合意が本件誓約書によって成立したか。)について検討する。〔中略〕
 しかし、本件就職禁止条項は、雇用契約の締結時に、使用者の要求に基づいて労働者が職業選択の自由を制限されることを承諾するものであるから、本件誓約書の成立の真正が認められるからといって、そのことだけで、直ちに記載されている文言どおりに、職業選択の自由を制限する合意が成立したと認められるかについては、慎重に検討する必要がある。本件就職禁止条項をめぐって、〔1〕労働者の職業選択の自由を制限することによって守られる利益の保護のために、本件就職禁止条項が提案されたか否か、〔2〕相手方らが、本件就職禁止条項が記載された本件誓約書を作成した経緯について検討した上で、本件就職禁止条項の合意が成立したといえるかどうかを判断しなければならない。
 また、本件就職禁止条項の文言をみると、「本件事務所の顧客にとって、競合関係を構成する特許事務所等」との文言で、一応再就職先とすることが禁止される特許事務所等の範囲を表現しているが、「顧客」の範囲を限定する文言がないし、「競合関係」の意味内容が明確化されていないから、結局、実在する個々の特許事務所等が上記禁止の対象に該当するか否かを、同条項の文言のみからは確定のしようがないものである。そして、もし、上記範囲が確定できないとすれば、職業選択の自由の制限の範囲が不確定な表現のままで、本件就職禁止条項の合意の成立を認めるには疑問があるといわなければならない。〔中略〕
 以上のとおりであるから、弁理士業務において取り扱う顧客の技術上の秘密情報は、弁理士法が関係者に守秘義務を負わすとともに、その違反者に刑罰を科すことによって、法的な保護が与えられている利益である。したがって、守秘義務の実効性を確保するために、秘密漏洩につながる危険性のある一定の行為について、関係者間で事前に契約等を結んで、合理的な制限をすることも許容されているといわなければならない。
 したがって、弁理士事務所が、顧客の技術上の秘密情報を保護する目的で、その従業員になろうとする者との間で、退職後において一定の合理的な制限を加えることの承諾を求めることも許されるといえる。
 イ 疎明資料によれば、抗告人は、上記利益を保護する目的で本件就職禁止条項の承諾を相手方らに求めたことが認められるので、この点からは、本件就職禁止条項には合理性があるといえる。〔中略〕
 2 以上の疎明事実によると、相手方らは、本件誓約書を作成した際に、特許事務所である本件事務所で取り扱う情報には、公開前の発明等の高度の機密性を有する顧客の技術情報等の秘密が含まれていて、それが部外に漏洩すれば関係者に多大の損失を被らせる事態となるから、同事務所で執務することになれば、本件事務所が管理する上記情報等について秘密を守る必要性があることを、理解し、認識していたといえる。そして、相手方らは、上記必要性がある以上、上記情報を記載した文書等の資料を本件事務所から外部へ持ち出してはならないこと及び本件事務所で取得した上記情報を部外者に対して漏らしてはならないことについても、承知していたものと認められる。〔中略〕
 以上によると、本件誓約書の作成時において、相手方らは、本件就職禁止条項の意味内容を、本件事務所で管理している顧客の技術上の秘密情報に接する機会のあった従業員が、本件事務所を退職した後に、当該秘密情報を当該顧客の不利益に使用することを予防する目的で、事前に禁止事項を示す趣旨のものであるという程度の曖昧な理解と認識をしていたものというべきである。〔中略〕
 以上によれば、本件誓約書に記載されている本件就職禁止条項は、労働者の職業選択の自由の制限に関する表現になっているにもかかわらず、当事者双方は、本件誓約書を、そのような事項が記載された文書というよりも、従業員としての注意喚起をする趣旨の文書であると見ていた可能性が高いということができる。〔中略〕
 5 以上で検討したところによると、本件就職禁止条項は、労働者の職業選択の自由を制限する内容の条項であるけれども、抗告人及び相手方らの双方において、相手方らが、特定の特許事務所等に再就職しようとした場合に、抗告人から本件就職禁止条項の存在を理由として、就職の中止を要求できる法的根拠になることを理解し、認識していたというよりは、本件誓約書と同時に提出された就業規則を遵守する旨の誓約書と同様に、本件誓約書は、従業員として就労するについての留意事項について注意を喚起する趣旨の文書であり、同条項はその一例であると理解し、認識していたものとみるのが実態に即しているというべきである。
 したがって、本件就職禁止条項が、その文言どおり、相手方らの職業選択の自由を制限する内容の約束として、当事者間で合意されたものと認めるには、疑問がある。〔中略〕
 以上で認定した諸事実によると、本件就職禁止条項が記載された誓約書に基づいて、相手方らが誓約したことは認められるので、再就職先の範囲等の点はともかくとして、再就職先を制限すること自体についての誓約(合意)が成立していたと解する余地はある。しかし、誓約がされた経緯、誓約の対象となった事項の性質、誓約した誓約条項の文言及び文言の意味内容等は、前記のとおりであるから、〔1〕誓約の態様が、法律的義務を負担することを承諾したものであったというより、注意喚起の趣旨でされたとみられるものであるところ、〔2〕再就職が禁止される就職先の範囲が文言上特定されていないので、たとえ同条項に表示されていない弁理士事務所等特有の事情を加味して、範囲の確定を図っても、結局は範囲を明確に画することができないこと、〔3〕相手方らの担当職務は、本件事務所の業務の一部分であるから、相手方らが本件事務所の顧客の総ての技術情報の秘密に触れているとは考え難く、本件事務所の顧客全部との関係で就職先を制限する必要性はないこと、〔4〕さらに、再就職先の制限をしなければ本件事務所の顧客の技術秘密が漏洩する可能性が高いとも認められないことを総合すると、本件就職禁止条項に労働者の職業選択の自由に優先する効力を認めるのは相当でない。すなわち、同条項は公序良俗に違反して無効であるというべきである。
 7 以上の次第で、本件において、被保全権利である本件就職禁止条項の合意が成立したことの疎明がなく、また、仮に、本件就職禁止条項の合意が成立していたとしても、これによって相手方らの再就職先を制限することは、公序良俗に違反して無効であるから、被保全権利の疎明がない。