全 情 報

ID番号 07947
事件名 留学費用返還請求事件
いわゆる事件名 野村證券(留学費用返還請求)事件
争点
事案概要  証券会社X1(脱退原告)の営業課及び企業営業課に勤務していたYは、X1の海外留学候補生として選抜され、語学学校に通うなどの留学準備を行った後に、フランスの大学院へ留学してMBA資格などを取得したところ、この海外留学に際しては、X1の海外留学派遣要綱に、留学を終えた者がその後五年以内に自己都合退職した場合には留学費用をX1に弁済しなければならない旨の規定が置かれていたが、Yは帰国後一年一〇か月の時点でX1を退職したため、X2(原告引受承継人)がYに対し、留学費用の返還を請求し、右返還請求が労働基準法一六条違反となるか否かが争われたケースで、労働基準法一六条違反である労働契約の不履行に関する違約金ないし損害賠償の予定であるのか、それとも免除特約付の貸付けであるのかどうかを判断するに当たっては、労働基準法一六条の趣旨を踏まえ当該海外留学の実態等を考慮しなければならないとしたうえで、本件海外留学の実態は、最終的にはY自身が留学を決定したものと推認でき、またX1による留学地域の指定等もあくまで将来の人材育成という範囲を出ず、業務との関連性は抽象的・間接的なものにとどまり、その他、費用免除までの期間などを考慮すれば、本件合意はX1からYに対する貸し付けたる実質を有し、労働基準法一六条に違反しないとして、請求が認容された事例。
参照法条 労働基準法16条
体系項目 労働契約(民事) / 賠償予定
裁判年月日 2002年4月16日
裁判所名 東京地
裁判形式 判決
事件番号 平成10年 (ワ) 19822 
裁判結果 認容(控訴(和解))
出典 労働判例827号40頁/労経速報1806号3頁
審級関係
評釈論文 ・労政時報3544号62~63頁2002年6月28日/吉田哲郎・季刊労働法204号232~245頁2004年3月/小畑史子・労働基準55巻1号30~34頁2003年1月/峰隆之・経営法曹137号10~22頁2003年5月
判決理由 〔労働契約-賠償予定〕
 脱退原告と被告との間には、本件留学の派遣要綱8条所定の費用全額につき、被告が留学を終え帰任後5年間脱退原告において就業した場合には債務を免除するが、そうでない場合は返還する旨の合意が成立した。〔中略〕
 会社が負担した海外留学費用を労働者の退社時に返還を求めるとすることが労働基準法16条違反となるか否かは、それが労働契約の不履行に関する違約金ないし損害賠償額の予定であるのか、それとも費用の負担が会社から労働者に対する貸付であり、本来労働契約とは独立して返済すべきもので、一定期間労働した場合に返還義務を免除する特約を付したものかの問題である。そして、本件合意では、一定期間内に自己都合退職した場合に留学費用の支払義務が発生するという記載方法を取っているものの、弁済又は返却という文言を使用しているのであるから、後者の趣旨であると解するのが相当である。〔中略〕
 しかし、具体的事案が上記のいずれであるのかは、単に契約条項の定め方だけではなく、労働基準法16条の趣旨を踏まえて当該海外留学の実態等を考慮し、当該海外留学が業務性を有しその費用を会社が負担すべきものか、当該合意が労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものかを判断すべきである。
 ところで、勤続年数が短いにもかかわらず将来を嘱望される人材に業務とは直接の関連性がなく労働者個人の一般的な能力を高め個人の利益となる性質を有する長期の海外留学をさせるという場合には、多額の経費を支出することになるにもかかわらず労働者が海外留学の経験やそれによって取得した資格、構築した人脈などをもとにして転職する可能性があることを考慮せざるを得ず、したがって、例外的な事象として早期に自己都合退社した場合には損害の賠償を求めるという趣旨ではなく、退職の可能性があることを当然の前提として、仮に勤務が一定年数継続されれば費用の返還を免除するが、そうでない場合には返還を求めるとする必要があり、仮にこのような方法が許されないとすれば企業としては多額の経費を支出することになる海外留学には消極的にならざるを得ない。また、上記のような海外留学は人材育成策という点で広い意味では業務に関連するとしても、労働者個人の利益となる部分が大きいのであるから、その費用も必ずしも企業が負担しなければならないものではなく、むしろ労働者が負担すべきものと考えられる。他方、労働者としても一定の場合に費用の返還を求められることを認識した上で海外留学するか否かを任意に決定するのであれば、その際に一定期間勤務を継続することと費用を返還した上で転職することとの利害得失を総合的に考慮して判断することができるから、そのような意味では費用返還の合意が労働者の自由意思を不当に拘束するものとはいいがたい。仮に、合意成立時に予想しないような特別の事情が発生して退職を余儀なくされたり、予想の範囲を超える多額の費用を要したのであれば、自己都合の解釈や権利濫用の法理によって妥当な解決を図ることができる。よって、上記(ママ)場合には、費用返還の合意は会社から労働者に対する貸付たる実質を有し、労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものではなく、労働基準法16条に違反しないといえる。〔中略〕
 本件留学は勤続年数が短いにもかかわらず将来を嘱望される人材に多額の費用をかけて長期の海外留学をさせるという場合に該当する。
 本件海外留学決定の経緯を見るに、被告は人間の幅を広げたいといった個人的な目的で海外留学を強く希望していたこと、派遣要綱上も留学を志望し選考に応募することが前提とされていること、面談でも本人に留学希望を確認していること、〔中略〕が認められる。これによれば、仮に本件留学が形式的には業務命令の形であったとしても、その実態としては被告個人の意向による部分が大きく、最終的に被告が自身の健康状態、本件誓約書の内容、将来の見通しを勘案して留学を決定したものと推認できる。
 また、留学先での科目の選択や留学中の生活については、被告の自由に任せられ、脱退原告が干渉することはなかったのであるから、その間の行動に関しては全て被告自身が個人として利益を享受する関係にある。実際にも被告は獲得した経験や資格によりその後の転職が容易になるという形で現実に利益を得ている。
 他方、脱退原告の留学生選定においては勤務成績も考慮すること、脱退原告は被告に対し留学地域としてフランス語圏を指定し、ビジネス・スクールを中心として受験を勧め、それにはフランス語圏が重要な地域であること等、中長期的に基幹的な部署に配置することのできる人材を養成するという会社の方針があることが認められる。しかし、これらは派遣要綱1条の目的に従ったものと見ることができ、あくまでも将来の人材育成という範囲を出ず、そうであれば業務との関連性は抽象的、間接的なものに止まるといえる。したがって、本件留学は業務とは直接の関連性がなく労働者個人の一般的な能力を高め個人の利益となる性質を有するものといえる。
 その他、費用債務免除までの期間などを考慮すると、本件合意は脱退原告から被告に対する貸付たる実質を有し、被告の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものではなく、労働基準法16条に違反しないといえる。